eLearning/Greek/Dinarchus/InDemosthenem
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[[eLearning/Greek/Dinarchus]] *Dinarchus, '''In Demosthenem'''(デイナルコス『デーモステネース弾劾』) [#qd6a9ca0] >Last updated: 2008/08/26 by MATSUURA Takashi -Din. 1 -Din. '''In Dem.''' -Dinarchi In Demosthenem -Δεινάρχου Κατὰ Δημοσθένους -Dinarchus, '''Against Demosthenes''' -'''Against Demosthenes of Dinarchus''' **背景 [#z2cee716] 紀元前324年、アレクサンドロス大王の財務官であったハルパロス(Ἅρπαλος; Harpalus)がアテーナイに亡命しようとしたところから事件は始まる。 ハルパロスは、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼし、新たに都としたバビロン(Babylon)で道楽の限りを尽くし、汚職を行った。東方遠征から帰ってきたアレクサンドロス大王が、背信行為や汚職を行ったサトラップや将軍を次々と罰していったのを聞き、すぐに自分が亡命しなければならないことを知る。 ハルパロスは大規模な艦隊(30艘)、多数の傭兵(6000人)と莫大な資金(5000タラントン)を携えてアテーナイに到着し、庇護を求める。これは、彼がアテーナイ市民権をもっており、また、ギリシア本土では唯一アテーナイが、アレクサンドロス大王に対抗できる国であったからである。つまり、自分の提供する軍隊と資金を用いてアテーナイがアレクサンドロス大王に対して反乱を起こし、アテーナイが勝利すれば自分は安全にアテーナイに留まれる、というもくろみであった。 一方アテーナイには、ハルパロス以上にアレクサンドロス大王に対して反乱を起こすだけの理由があった。アレクサンドロス大王の使節としてオリュンピアーでスタギーラーのニーカーノール(Νικάνωρ Σταγιρίτης; Nicanor Stagirites; Nicanor of Stagira)がギリシア諸国にもたらした、「亡命者に関する布告」(the Exiles Decree)は、アテーナイにとっては、到底受け入れられるものではなかった。コリントス同盟によって、名目上ギリシア諸国の独立は認められていたので、亡命者を送還しなければならないという、違法な布告はどうしても拒否しなければならないものだった。 ハルパロスのアテーナイ入国を認めるかどうかについて協議が開かれ、デーモステネースは、彼の軍隊をアレクサンドロス大王への反乱のために利用するべきではない、と主張する。民会は、その年の将軍(στρατηγός)ピロクレース(Φιλοκλῆς; Philocles)に入国を認めないよう命じ、ハルパロスは結局ラコーニアー南部のタイナロンに基地をはった。 //アレクサンドロス大王の財務官であったハルパロスがアテーナイに亡命しようとしたところから事件は始まる。ハルパロスは大規模な艦隊と莫大な資金を携えてアテーナイに到着する。ハルパロスを逮捕し、資金は取り上げてアクロポリスに置いておくという提案を最初にしたのはデーモステネースだと考えられている。後にハルパロスが逃げ、アクロポリスにあった資金が一部なくなっていたことから、アレオパゴス裁判にかけられる。その結果50タラントンの罰金を科せられる。デーモステネースはこれにより亡命したが、数ヶ月後アレクサンドロス大王の死後、アテーナイに戻ってくる。 その後324年6月頃にハルパロスは、数を絞った軍勢と、(彼の主張するところでは)700タラントンを携えてアテーナイに戻ってくる。このときは入国の嘆願を行ったので、ピロクレースはその要求を容れる。ハルパロスがアテーナイに入国し、2回目の民会が開かれた。そこではアレクサンドロス大王にマケドニアとギリシア諸国を任されたアンティパトロスの使節がハルパロスの送還を要求した。アテーナイにとっては、ここでアレクサンドロス大王の元にハルパロスを送還して、彼の不正行為を罰してもらうのが安全であった。しかしここで、ハルパロスを逮捕し、資金を没収してアクロポリスで保管すべきと主張したデーモステネースが再び勝利を得る。ヒュペレイデースによれば、民会のあった次の日に資金はアクロポリスに移された。 ハルパロスが投獄されている間にデーモステネースはオリュンピアーに使節団長として向かう。これは「亡命者に関する布告」に関して話し合うためであった。デーモステネースがオリュピアーから帰ってくると、ハルパロスは逃亡していた。彼はタイナロンを経由しクレータ島へ行き、そこで殺された。 ハルパロスの死によってはこの事件は終わらなかった。デーモステネースとその他の数名が、逃亡の手助けのためにわいろを受け取ったという罪状で告訴された。アクロポリスに、700タラントンのうちの半分程度しか残っていなかったからである。評議会(βουλή)の場でデーモステネースは、アレオパゴス評議会(Ἄρειος πάγος; Areopagus)がアポパシス(ἀπόφασις)と呼ばれる手続きに則って調査すべき、と言ったので(Din. 1.1)、アレオパゴス評議会は「調査」(ζήτησις)を行い、「報告」(ἀπόφασις)を行った。「報告」の結果嫌疑あり、とされると、通常の法廷での裁判となる。これに加えてデーモステネースは、もしハルパロスからわいろを受け取ったことが法廷で認められたならば、死刑になっても構わない、と言った。「調査」の間にデーモステネースは、評議会に対して、告訴に関する証拠をアレオパゴスに提出するために「異議申し立て」(πρόκλησις)を行う(Din. 1.5)。しかしデーモステネースは、自分はハルパロスから金をわいろとして受け取ったのではなく、アテーナイの「観劇手当基金」(Theoric Fund)への貸し付けのため、つまりはアテーナイ市のために受け取ったのだと言った。 6ヶ月の調査ののち、アレオパゴス評議会はデーモステネースと他の数名を、国家の利益に反して収賄を行った罪(δωροδοκία)で訴える内容の「報告」を行う。それとほぼ時を同じくしてアレクサンドロス大王から、「亡命者に関する布告」に関するアテーナイの要請を却下する内容の知らせが届く。この2つのできごとの一致はあまりにもよくできすぎているので、おそらくアレオパゴス評議員たち(Ἀρεοπαγῖται)は、自分たちの「報告」にデーモステネースの名前を含めることによってアレクサンドロス大王の決定をぐらつかせることを考えていた。これに対してデーモステネースは、自分はアレクサンドロス大王を喜ばせるために犠牲にされた、といって2回目の「異議申し立て」を行う。今回デーモステネースは、アレオパゴスの提出した「報告」がどんなことにもとづいているのかを説明するように要求した(Din. 1.6)。 デーモステネースが身の潔白を主張したにもかかわらず、323年3月に収賄罪(δωροδοκία)で裁判にかけられた。収賄罪に対する量刑は、受け取ったわいろの額の10倍の罰金と、それが払われるまでの公民権の剥奪、または死刑であった。告訴は10人によって行われた。第1番目の弁論はストラトクレース(Στρατοκλῆς; Stratocles)が行い、デイナルコスが弁論を代作した、名前の知られていない者が第2番目の弁論を行った。デーモステネースは裁判の結果有罪となり、50タラントンの罰金を科せられて投獄された。1週間後に彼は身の潔白を訴えつつ、亡命した。 //原告側は10人で // //+ヒメライオス(Himeraeus) //+ヒュペレイデース(Hyperides) //+メネサイクモス(Menesaechmus) //+パトロクレース(Patrocles)またはプロクレース(Procles) //+ピュテアース(Pytheas) //+ストラトクレース(Stratocles) //-他(名前不明) // //であった。ストラトクレースが第1番目に弁論を行い、次はデイナルコスが弁論を代作した者であった(ヒメライオスかメネサイクモス?)。 **[[注釈>eLearning/Greek/Dinarchus/InDemosthenem/Commentary]] [#de8d924e]
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[[eLearning/Greek/Dinarchus]] *Dinarchus, '''In Demosthenem'''(デイナルコス『デーモステネース弾劾』) [#qd6a9ca0] >Last updated: 2008/08/26 by MATSUURA Takashi -Din. 1 -Din. '''In Dem.''' -Dinarchi In Demosthenem -Δεινάρχου Κατὰ Δημοσθένους -Dinarchus, '''Against Demosthenes''' -'''Against Demosthenes of Dinarchus''' **背景 [#z2cee716] 紀元前324年、アレクサンドロス大王の財務官であったハルパロス(Ἅρπαλος; Harpalus)がアテーナイに亡命しようとしたところから事件は始まる。 ハルパロスは、アレクサンドロス大王がペルシア帝国を滅ぼし、新たに都としたバビロン(Babylon)で道楽の限りを尽くし、汚職を行った。東方遠征から帰ってきたアレクサンドロス大王が、背信行為や汚職を行ったサトラップや将軍を次々と罰していったのを聞き、すぐに自分が亡命しなければならないことを知る。 ハルパロスは大規模な艦隊(30艘)、多数の傭兵(6000人)と莫大な資金(5000タラントン)を携えてアテーナイに到着し、庇護を求める。これは、彼がアテーナイ市民権をもっており、また、ギリシア本土では唯一アテーナイが、アレクサンドロス大王に対抗できる国であったからである。つまり、自分の提供する軍隊と資金を用いてアテーナイがアレクサンドロス大王に対して反乱を起こし、アテーナイが勝利すれば自分は安全にアテーナイに留まれる、というもくろみであった。 一方アテーナイには、ハルパロス以上にアレクサンドロス大王に対して反乱を起こすだけの理由があった。アレクサンドロス大王の使節としてオリュンピアーでスタギーラーのニーカーノール(Νικάνωρ Σταγιρίτης; Nicanor Stagirites; Nicanor of Stagira)がギリシア諸国にもたらした、「亡命者に関する布告」(the Exiles Decree)は、アテーナイにとっては、到底受け入れられるものではなかった。コリントス同盟によって、名目上ギリシア諸国の独立は認められていたので、亡命者を送還しなければならないという、違法な布告はどうしても拒否しなければならないものだった。 ハルパロスのアテーナイ入国を認めるかどうかについて協議が開かれ、デーモステネースは、彼の軍隊をアレクサンドロス大王への反乱のために利用するべきではない、と主張する。民会は、その年の将軍(στρατηγός)ピロクレース(Φιλοκλῆς; Philocles)に入国を認めないよう命じ、ハルパロスは結局ラコーニアー南部のタイナロンに基地をはった。 //アレクサンドロス大王の財務官であったハルパロスがアテーナイに亡命しようとしたところから事件は始まる。ハルパロスは大規模な艦隊と莫大な資金を携えてアテーナイに到着する。ハルパロスを逮捕し、資金は取り上げてアクロポリスに置いておくという提案を最初にしたのはデーモステネースだと考えられている。後にハルパロスが逃げ、アクロポリスにあった資金が一部なくなっていたことから、アレオパゴス裁判にかけられる。その結果50タラントンの罰金を科せられる。デーモステネースはこれにより亡命したが、数ヶ月後アレクサンドロス大王の死後、アテーナイに戻ってくる。 その後324年6月頃にハルパロスは、数を絞った軍勢と、(彼の主張するところでは)700タラントンを携えてアテーナイに戻ってくる。このときは入国の嘆願を行ったので、ピロクレースはその要求を容れる。ハルパロスがアテーナイに入国し、2回目の民会が開かれた。そこではアレクサンドロス大王にマケドニアとギリシア諸国を任されたアンティパトロスの使節がハルパロスの送還を要求した。アテーナイにとっては、ここでアレクサンドロス大王の元にハルパロスを送還して、彼の不正行為を罰してもらうのが安全であった。しかしここで、ハルパロスを逮捕し、資金を没収してアクロポリスで保管すべきと主張したデーモステネースが再び勝利を得る。ヒュペレイデースによれば、民会のあった次の日に資金はアクロポリスに移された。 ハルパロスが投獄されている間にデーモステネースはオリュンピアーに使節団長として向かう。これは「亡命者に関する布告」に関して話し合うためであった。デーモステネースがオリュピアーから帰ってくると、ハルパロスは逃亡していた。彼はタイナロンを経由しクレータ島へ行き、そこで殺された。 ハルパロスの死によってはこの事件は終わらなかった。デーモステネースとその他の数名が、逃亡の手助けのためにわいろを受け取ったという罪状で告訴された。アクロポリスに、700タラントンのうちの半分程度しか残っていなかったからである。評議会(βουλή)の場でデーモステネースは、アレオパゴス評議会(Ἄρειος πάγος; Areopagus)がアポパシス(ἀπόφασις)と呼ばれる手続きに則って調査すべき、と言ったので(Din. 1.1)、アレオパゴス評議会は「調査」(ζήτησις)を行い、「報告」(ἀπόφασις)を行った。「報告」の結果嫌疑あり、とされると、通常の法廷での裁判となる。これに加えてデーモステネースは、もしハルパロスからわいろを受け取ったことが法廷で認められたならば、死刑になっても構わない、と言った。「調査」の間にデーモステネースは、評議会に対して、告訴に関する証拠をアレオパゴスに提出するために「異議申し立て」(πρόκλησις)を行う(Din. 1.5)。しかしデーモステネースは、自分はハルパロスから金をわいろとして受け取ったのではなく、アテーナイの「観劇手当基金」(Theoric Fund)への貸し付けのため、つまりはアテーナイ市のために受け取ったのだと言った。 6ヶ月の調査ののち、アレオパゴス評議会はデーモステネースと他の数名を、国家の利益に反して収賄を行った罪(δωροδοκία)で訴える内容の「報告」を行う。それとほぼ時を同じくしてアレクサンドロス大王から、「亡命者に関する布告」に関するアテーナイの要請を却下する内容の知らせが届く。この2つのできごとの一致はあまりにもよくできすぎているので、おそらくアレオパゴス評議員たち(Ἀρεοπαγῖται)は、自分たちの「報告」にデーモステネースの名前を含めることによってアレクサンドロス大王の決定をぐらつかせることを考えていた。これに対してデーモステネースは、自分はアレクサンドロス大王を喜ばせるために犠牲にされた、といって2回目の「異議申し立て」を行う。今回デーモステネースは、アレオパゴスの提出した「報告」がどんなことにもとづいているのかを説明するように要求した(Din. 1.6)。 デーモステネースが身の潔白を主張したにもかかわらず、323年3月に収賄罪(δωροδοκία)で裁判にかけられた。収賄罪に対する量刑は、受け取ったわいろの額の10倍の罰金と、それが払われるまでの公民権の剥奪、または死刑であった。告訴は10人によって行われた。第1番目の弁論はストラトクレース(Στρατοκλῆς; Stratocles)が行い、デイナルコスが弁論を代作した、名前の知られていない者が第2番目の弁論を行った。デーモステネースは裁判の結果有罪となり、50タラントンの罰金を科せられて投獄された。1週間後に彼は身の潔白を訴えつつ、亡命した。 //原告側は10人で // //+ヒメライオス(Himeraeus) //+ヒュペレイデース(Hyperides) //+メネサイクモス(Menesaechmus) //+パトロクレース(Patrocles)またはプロクレース(Procles) //+ピュテアース(Pytheas) //+ストラトクレース(Stratocles) //-他(名前不明) // //であった。ストラトクレースが第1番目に弁論を行い、次はデイナルコスが弁論を代作した者であった(ヒメライオスかメネサイクモス?)。 **[[注釈>eLearning/Greek/Dinarchus/InDemosthenem/Commentary]] [#de8d924e]
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