eLearning/Greek/Aristophanes/Scholarship
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[[eLearning/Greek/Aristophanes]] *アリストパネースの研究史 [#q346b456] >Last updated: 2009/10/22 by MATSUURA Takashi :N.B.|以下で単に「アリストパネース」と言った場合は喜劇詩人アリストパネースのことを指し、文法家アリストパネースのことは必ず「ビューザンティオンのアリストパネース」と呼ぶ。 我々に伝えられているアリストパネースのテキストは、文法家アリストパネース(Ἀριστοφάνης Γραμματικός; Aristophanes Grammaticus)とも呼ばれる''ビューザンティオン''(Βυζάντιον; Byzantium; Byzantine)''のアリストパネース''(Ἀριστοφάνης Βυζάντιος; Aristophanes Byzantius; Aristophanes of Byzantine; c.257–c.180)が作った、最初の校訂本にその起源を求めることができる。しかし、アリストパネースが死んだ紀元前4世紀前半以降、ビューザンティオンのアリストパネースまで研究が行われてこなかったわけではない。 まず、紀元前4世紀後半にリュケイオン(Λύκειον, Lykeion; Lyceum)でペリパトス派(περιπατητικός; Peripatetic school)の人々が悲劇と喜劇の上演年代と優勝者のリスト作りを行った。アリストパネースの写本の梗概(ὑπόθεσις; hypothesis)に記されている上演年代はこのリストのさかのぼると考えられている。また、この時代には''リュクールゴス''(Λυκοῦργος, Lycurgos; Lycurgus)によって三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソポクレース、エウリピデース)のテキストが集められ、アテーナイの公文書庫に収められた。 アリストパネースの研究は、他の多くの詩人たちと同様、''アレクサンドレイア''(Ἀλεξάνδρεια, Alexandreia; Alexandria)において始められた。 エジプトを滅ぼしたアレクサンドロス大王は首都移転先としてのちのアレクサンドレイアを選び、紀元前330年頃から建設が始まる。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、エジプトを引き継いだ''プトレマイオスI世ソーテール''(Πτολεμαῖος αʹ ὁ Σωτήρ, Ptolemaios Soter; Ptolemaeus I Soter; Ptolemy of the Saviour; c.367–c.283)は大王へのオマージュとしてこの地をアレクサンドレイアと名付けた。プトレマイオス朝エジプトの初代の王(322–283)となった彼は王立学術研究所である''ムーセイオン''(Μουσείον, Museion; Museum)を建設し、それに図書館を併設した。これが''アレクサンドレイア図書館''である。ムーセイオンはプトレマイオスI世とベレニケー(Βερενίκη αʹ τῆς Αἰγύπτου)の子''プトレマイオスII世ピラデルポス''(Πτολεμαῖος βʹ Φιλάδελφος, Ptolemaios Philadelphos; Ptolemaeus II Philadelphus; Ptolemy II Philadelphus; 309–246)の治世(285–246)に隆盛を極めた。エペソス(Ἔφεσος; Ephesus)出身の''ゼーノドトス''(Ζηνόδοτος, Zenodotos; Zenodotus; fl.280)がアレクサンドレイア図書館の初代館長を務めた。彼はコース島(Κώς; Cos)出身の''ピリータース''(Φιλίτας; Philitas)の弟子である。ピリータースはピラデルポスの家庭教師も務めていた。 最初の''校訂者''(διορθώτης; critical editor)と呼ばれることからわかるように、ゼーノドトスによって文献学の歴史が始まったといえる。彼は、主に叙事詩の作品の校訂を行った。彼の同僚には''アイトーリアー''(Αἰτωλία; Aetolia)''のアレクサンドロス''(Ἀλέξανδρος ὁ Αἰτωλός; Alexander Aetolus)と''リュコプローン''(Λυκόφρων, Lycophron; Lycophro)がいる。前者は悲劇とサテュロス劇の、後者は喜劇の文献係を務めた。第2代館長は''ロドス''(῾Ρόδος; Rhodes)''のアポッローニオス''(Ἀπολλώνιος Ῥόδιος; Apollonius Rhodius; Apollonius of Rhodes)第3代館長はキューレーネー(Κυρήνη; Cyrene)''のエラトステネース''(Ἐρατοσθένης; Eratosthenes)が務めた([['''Suda''' s.v. Ἐρατοσθένης:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Epsilon,2898]] [ε 2898])。紀元前200年頃からの第4代館長がビューザンティオンのアリストパネース([['''Suda''' s.v. Ἀριστοφάνης:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Alpha,3933]] [α 3933])、第6代館長がサモトラケー(Σαμοθράκη; Samothrace)の''アリスタルコス''(Ἀρίσταρχος, Aristarkhos; Aristarchus)である。 アレクサンドレイア図書館には膨大な数の書籍が集められ、最盛期には全70万冊に上ったと言われている。そのため、目録作りは非常に重要な仕事であった。ピラデルポスの即位のあとほどなくしてゼーノドトスのもと、まずは詩人の作品の目録作りが行われ、キューレーネーの''カッリマコス''(Καλλίμαχος, Kallimakhos; Callimachus; c.305–c.240)が全49万冊の蔵書に対して目録を完成させて全120巻にまとめた([['''Suda''' s.v. Καλλίμαχος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Kappa,227]] [κ 227])。これは『書誌目録』(Πίνακες)と呼ばれ、作家別に作品がアルファベット順に並べられ、作品の冒頭部分が併記されている。ビューザンティオンのアリストパネースはこれの補遺を作成した(Athen. 9.408f)。 アリストパネースの同時代の言及は、紀元前5世紀のアテーナイ人にとってはたやすく理解できるものであった。アテーナイは小さな町であったから、うわさが町のすみずみにまで広がるのにはさほど時間はかからなかったであろう。しかし、これは100年後のアレクサンドレイアの学者たちにとってはすでに理解の難しいものになってしまっていた。したがって、古喜劇の詩人の作品の解釈(ἐξήγησις, exegesis)は、実利的な目的で始められたのである。リュコプローンは喜劇作品を順にひも解いていき、詩人の生涯や作品に関する細かなことがら、その他記録するに値することを書き留めて、全9巻にまとめた(Ath. 9.485d)。このあとカッリマコスが『書誌目録』を作成し、エラトステネースが少なくとも全12巻を数える、古喜劇についての著作をしたためる(D.L. 7.5: φησιν Ἐρατοσθένης ἐν ὀγδόῃ Περὶ τῆς ἀρχαίας κωμῳδίας)。これらはのちに現れる「注釈」のように体系的なものではないが、膨大な書籍を収蔵したアレクサンドレイア図書館においては、これなくしてはその後の研究は困難なものになっていただろうと考えられる。 アレクサンドレイアの港についた船にあった書籍は没収し、写しを持ち主に戻して原本は図書館に収める、他の都市から借りた文献は罰金を払って写しのみを返す、などの強引な方法をも使い、アレクサンドレイア図書館の蔵書数は飛躍的に増えていく。古注には少なくともアリストパネースの36の劇への言及があるので、彼のほとんどの作品のテキストがアレクサンドレイア図書館に集められていたことになる。これらのテキストは不注意な写字生、役者、テキストの所有者の手によって少なからず損傷を受けていた。これらをビューザンティオンのアリストパネースが比較検討して校訂本を作成し、テキストがこわれていると判断した箇所に印をつけていった。また、ピンダロスにおいて彼が行ったように、それまで散文のように書かれていたテキストを韻律の単位ごとに区切って行分けをした。アレクサンドレイア図書館に存在した筆写本の中には古いアッティカ方言で書かれたものもあったはずだが、それを当時の正書法(orthography)にもとづいて書き直したのも彼とされる。劇のあらすじと上演記録(διδασκαλία)を韻文で記した''梗概''(ὑπόθεσις, hypothesis)は彼のものとされてきたが、これは別の学者が書いたものと一般に考えられている。 最初の''注釈''(ὑπόμνημα; commentary)は''エウプロニオス''(Εὐφρόνιος, Euphronios; Euphronius)によって書かれたと考えられている(Ath. 495c, Σ ad '''Av.''' 1403)。ビューザンティオンのアリストパネースが注釈を書いたかどうかははっきりしない。彼の生徒である''カッリストラトス''(Καλλίστρατος, Kallistratos; Callistratus)はアリストパネースのみならずクラティーノスの注釈も書いた(Ath. 495a)。彼のもう1人の生徒であるアリスタルコスは800もの著作を書いたが([['''Suda''' s.v. Ἀρίσταρχος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Alpha,3892]] [α 3892])、その中にアリストパネースに関するものも含まれていたと考えられる。これらの注釈は、現代の注釈書と同様、テキストとは別のパピルスの巻物に書かれ、''見出語''(λήμμα, lemma)に続いて注釈が書かれていたと考えられる(単注本)。 ビューザンティオンのアリストパネースのもっとも偉大な業績の一つは、事典の編纂である。彼は最初の偉大な事典編纂者と呼ばれるにふさわしい。また、''デーメートリオス・イクシーオーン''(Δημήτριος Ἰξίων, Demetrios Ixion; Demetrius Ixio)はアッティカ方言に関しての辞典を作成した([['''Suda''' s.v. Δημήτριος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Delta,430]] [δ 430])。 紀元前30年にエジプトがローマに支配されるようになるまでの約250年間に、このように「古典作家」の研究は目録作り、作家の生涯・作品についての事実の収集、真作・偽作の判定、校訂とその方法の確立、注釈の作成、などによってその高みに達していた。上に挙げた他にも、注釈や事典を作成した学者がたくさんおり、おそらく彼らの死後、その作品は図書館に収められ、様々な学者の業績が蓄積されていった。 これらの蓄積を集大成し、ふるいにかける作業を最初に行ったのが紀元前1世紀終わりから紀元後1世紀の初めに活躍した''ディデュモス''(Δίδυμος χαλκέντερος, Didymos khalkenteros; Didymus Chalcenterus)である。3500巻もの本を書いたことから「青銅の腸をもつ」(χαλκέντερος)と呼ばれる([['''Suda''' s.v. Δίδυμος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Delta,872]] [δ 872])。彼はアリストパネースのみならず、プリューニコス、エウポリス、おそらくクラティーノス、メナンドロス、アッティカの弁論家の''集解''(しゅうげ;variorum editions)を書き、喜劇詩人の事典も書いた。彼は独創的な学者ではないが、偉大な収集家である。彼の作品はすべて散逸したが、1904年に発見されたデーモステネースへの注釈のパピルスによってそれが裏付けられている。 アレクサンドレイア図書館は、紀元前47年のナイルの戦いでカエサルの放火によりすべて焼失したとする説もあるが、この時に焼けたのは一部であって、アレクサンドレイア図書館は後代の火災や略奪や侵略によって段々と破壊されていったと一般には考えられている。 アレクサンドレイア図書館が紀元前47年に何らかの損傷を被ったことは確かで、たとえばアリスタルコスの『イーリアス』『オデュッセイア』の校訂本がおそらくその時に失われていることから、ディデュモスはアレクサンドレイア図書館に蓄積されている先人たちの業績が失われる可能性を憂慮し、集解の作成という仕事を始めたのだろうと White は考えている(White, xxxvi f.)。 実際にディデュモスがどの図書館の蔵書を使ったかについてはよくわからない。White は、次の可能性を考えている(White, xxxvii)。 +戦火をくぐり抜けたアレクサンドレイア図書館の蔵書 +セラーペイオンの蔵書 +ペルガモン図書館の蔵書 ''セラーペイオン''(Σεραπεῖον, Serapeion; Serapeum)は''プトレマイオスIII世エウエルゲテース''(Πτολεμαῖος γʹ Εὐεργέτης, Ptolemaios Euergetes; Ptolemaeus Euergetes; Ptolemy III Euergetes)の命によって紀元前3世紀の中頃に、アレクサンドレイア図書館の姉妹図書館として作られたものである。アッタロス朝ペルガモン王国の首都にあるペルガモン(Πέργαμος, Pergamon; Pergamum)図書館は、おそらくプトレマイオスI世ソーテールに遅れること1世紀、''アッタロスI世ソーテール''(Ἄτταλος αʹ ὁ Σωτήρ; Attalus I; 269–197)によって建設が始められ、''エウメネースII世''(Εὐμένης βʹ τῆς Περγάμου; Eumenes II)の時に完成した。アントーニウスがクレオパトラーにペルガモン図書館の蔵書全20万冊を贈ろうとしたという逸話から、ディデュモスの当時にはすでに大量の蔵書を抱えていたと考えられ、注釈も書かれていたと考えられる(Σ ad '''Aves''' 1508: ἐν τοῖς Ἀτταλίοις εὗρον σκιάδιον καὶ ἐν τῷ παλαιῷ τῷ ἐμῷ)。また、アレクサンドレイアは韻文作品の集成で有名だったのに対してペルガモンは散文作品で有名だったので、弁論作品への注釈を作成したディデュモスがペルガモン図書館の蔵書に興味を抱いていたことは十分に考えられる。 帝政期には、ピロクセノス(Φιλόξενος, Philoxenos; Philoxenus; [['''Suda''' s.v. Φιλόξενος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Phi,394]] [φ 394])、ヘーリオドーロス(Ἡλιόδωρος, Heliodoros; Heliodorus)、ヘーパイスティオーン(Ἡφαιστίων, Hephaistion; Hephaestio)が韻律について著した。ヘーリオドーロスはアリストパネースの韻律の解説を行ったが、断片が残るのみであり、ヘーパイスティオーンの全48巻の著作は、縮約版によってのみ伝わるだけである([['''Suda''' s.v. Ἡφαιστίων:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Eta,659]] [η 659])。アリストパネースの韻律理論に関してこの時代まで何も書かれてこなかったと考えるのは難しいので、ビューザンティオンのアリストパネースの韻律理論がヘーリオドーロスやヘーパイスティオーンに現れていると考えられている。 ディデュモスの次に集解を作成したのが''シュンマコス''(Σύμμαχος, Symmakhos; Symmachus; fl.100)である。彼がいつごろ、どこで注釈を作成したのかはよくわからない。彼がディデュモスの注釈を見ていたのは明らかで、喜劇に関する注釈だけを作成したこと、注意深く注釈を作成し、しばしばディデュモスとは違った結論を導いていることを考えると、彼はディデュモスの注釈書に満足できず、新たに注釈書を作成しようとしたのだと考えられている。なお、現在残っている11の劇を選んだのはシュンマコスであると Wilamowitz などによって考えられたことがあったが、これは誤りであるとされる。 4–5世紀に作者不明の集解が作られており、White は Dindorf の説を敷衍して、現在の古注の原型(archetype)はこれにさかのぼると考えている(White, lxxii)。この場合、それまでパピルスに書かれてきた別巻(冊)の注釈がテキストと一緒に、羊皮紙の余白に書かれ、これが7世紀半ばから9世紀半ばの「暗黒時代」をくぐり抜けて、コーンスタンティヌーポリスまたはコンスタンティノポリス(Κωνσταντινούπολις; Constantinopolis; Constantinople)総主教''ポーティオス''(Φώτιος, Photios; Photius; c.810–93)やその弟子と言われるアレタース(Arethas; c.860–c.939)たちによって「発見」されるまで生きながらえた、と考える。一方 Zuntz のように、現在の古注の原型、つまり余白に書き込まれた注は9世紀より前に存在したと考えることはできない、とする考えもある。 現存する最古のアリストパネースの写本は R 写本であり、10世紀半ばに書かれたと考えられているから、これはポーティオスの1世紀後くらいであり、マケドニア朝ルネサンスにあたる。V 写本が写されたのは11世紀または12世紀前半と考えられている。この2つの写本はパライオロゴス朝ルネサンスにおける古典復興期の前に写されたので、写本伝承の混成(contaminatio; contamination)を受けていない。したがって古注がたくさんつけられている V 写本は、古注の校訂本を作る際にはもっとも重要な写本になる。R, V 写本は多くの劇を含んでいるが、ビューザンティオンでの研究は、特に1453年の東ローマ帝国の滅亡の前およそ200年間は、''ビューザンティオン三篇選集''(『プルートス』『雲』『蛙』)に限られるようになっていく。 パライオロゴス朝ルネサンスの13世紀以降は、様々な学者たちがテキストを校訂していくようになる。12世紀に''ヨハネス・ツェツェース''(Ιωάννης Τζέτζης; Johannes Tzetzes; c.1110–1180)がその先鞭をつける。彼の校訂の痕跡は、ミラノとヴァティカンにある写本に見つけることができる。ホメーロスの注釈で有名なエウスタティオス(Εὐστάθιος, Eustathios; Eustathius)は同じ時期にアリストパネースの注釈を書いたが、断片でしか残っていない。他に''マクシモス・プラヌーデース''(Μάξιμος Πλανούδης; Maximus Planudes; c.1255–c.1305)が『プルートス』におけるツェツェースの韻律上の誤りを訂正しているのが確認できる。また、''マヌーエール・モスコプーロス''(Mανουὴλ Μοσχόπουλος, Manuel Moskhopoulos; Manuel Moschopulus; c.1265–?)は『プルートス』の注釈を書いている。もっとも重要なのは、14世紀前半の''トーマース・マギストロス''(Θωμᾶς ὁ Μάγιστρος; Thomas Magister)と、''デーメートリオス・トリクリニオス''(Δημήτριος Τρικλίνιος; Demetrius Triclinius)の2人であろう。マギストロスはビューザンティオン三篇選集の注釈を書き、それは学校の教材として使われた。トリクリニオスもやはり注釈を書いたが、もっとも有名なのは、伝えられているテキストで韻律上誤っている箇所を直したことだろう。 //-ストラボーン(Στράβων, Strabon; Strabo) //-ペッラ(Πέλλα; Pella)マケドニアの首都 //-アンティオケイア(Ἀντιόχεια, Antiokheia; Antiochia; Antioch) //-タルソス(Ταρσός; Tarsus) //- //アリストパネースの古注は大きく4つに分けられる(Dickey, 28–31)。 //+古代の古注 //+ツェツェースの古注 //+トーマス・マギステル(Thomas Magister)の古注 //+デーメートリオス・トリクリニオス(Demetrius Triclinius)の古注 // //古代の古注はアレクサンドリア時代にさかのぼり、カッリマコス、エラトステネース、リュコプローンが注を作成したことが知られている。最初の(文章として連続した)注釈を書いたのは、ビューザンティオンのアリストパネースの先生であるエウプロニオス(Euphronius)であると言われている。ビューザンティオンのアリストパネース自身も、梗概、注釈付きの校訂本を作成した。カッリストラトス(Callistratus)とアリスタルコスもおそらく注釈を作成し、ロドスのティーマキダス(Timachidas)は『蛙』の注釈を書いた。 // //これらの注釈をディデュモスが紀元前1世紀の終わり、または紀元後1世紀の初めに集成し、シュンマコスが紀元前1世紀または2世紀にディデュモスを主に用いながら、他の注釈も参考にして新たな注釈本を作成した。 // //ヘーリオドーロス(紀元後100年前後)が書いたアリストパネースの韻律の研究書は、注釈とは別に読まれていた。 // //特に最後の数世紀のビューザンティオンでの研究は、ビューザンティオン三篇選集(『プルートス』『雲』『蛙』)に限られるようになってきたが、ツェツェースとトリクリニオスはそれ以外に関しても注を書いている。ヘーリオドーロスにない韻律の解説はトリクリニオスによるものだと考えられている。エウスタティオスはアリストパネースの注釈を作成したが、現在は断片しか残っていない。新しい古注(scholia recentiora)はモスコプーロスによって書かれた。 **参考文献 [#ja87de8a] //-Austin, C., `The Scholia on Aristophanes', '''CR''' n.s. 51 (2001), . -Dickey, E., '''Ancient Greek Scholarship''' (Oxford, 2007) //-Dover, K.J., `The Scholia on the '''Knights'''', '''CR''' n.s. 22 (1972), . //- –- `Scholia Recentiora in '''Nubes'''' '''CR''' n.s. 28 (1978), . //-——— `Scholia on Aristophanes', '''CR''' n.s. 31 (1981), . -Dunbar, N. (ed.), '''Aristophanes: Birds''' (Oxford, 1995) -——— (ed.), '''Aristophanes: Birds''', Student Edition (Oxford, 1998) -Keany, J.J., ‘Notes on Moschopoulos and Aristophanes-Scholia’, '''Mnemosyne'''⁴ 25 (1972), 123–128. [[IngentaConnect:http://www.ingentaconnect.com/content/brill/mne/1972/00000025/00000002/art00002]] -Koster, W.J.W., et Holwerda, D., `De Eustathio, Tzetza, Moschopulo, Planude Aristophanis commentatoribus, I', '''Mnemosyne'''⁴ 7 (1954), 136–156. -——— ——— ‘De Eustathio, Tzetza, Moschopulo, Planude Aristophanis commentatoribus, II’, '''Mnemosyne'''⁴ 7 (1954), 196–206. -Labowsky, L. (ed.), '''Bessarion's library and the Biblioteca Marciana''' (Roma, 1979) -Strecker, K., '''De Lycophrone, Euphronio, Eratosthene comicorum interpretibus''' (diss. Gryphiswaldiae [Greifswald], 1884) Internet Archive: [[1:http://www.archive.org/details/delycophroneeup00stregoog]] [[2:http://www.archive.org/details/delycophroneeup01stregoog]] -White, J.W. (ed.), '''The Scholia on the Aves of Aristophanes''' (Boston, 1914) -Wilson, N.G., ‘A Chapter in the History of Scholia’, '''CQ''' n.s. 17 (1967), 244–256. -——— ‘Scholiasts and Commentators’, [['''GRBS''':http://www.duke.edu/web/classics/grbs/online.html]] 47 (2007), 39–70. -Zacher, K., '''Die Handschriften und Classen der Aristophanes-scholien''' (Leipzig, 1888) Internet Archive: [[1:http://www.archive.org/details/diehandschrifte00zachgoog]] [[2:http://www.archive.org/details/diehandschrifte01zachgoog]] = `Die Handschriften und Classen der Aristophanes-scholien', [['''Jahrbücher für classische Philologie''' 16 (1888):http://www.archive.org/details/jahrbcherfrclas07flecgoog]], 501–746. -——— ‘Die schreibung der Aristophanesscholien im Cod. Ven. 474’, [['''Philologus''' 41 (1882):http://www.archive.org/details/philologus55archgoog]], 11–51. -Zuntz, G., '''An Inquiry into the Transmission of the Plays of Euripides''' (Cambridge, 1965)
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[[eLearning/Greek/Aristophanes]] *アリストパネースの研究史 [#q346b456] >Last updated: 2009/10/22 by MATSUURA Takashi :N.B.|以下で単に「アリストパネース」と言った場合は喜劇詩人アリストパネースのことを指し、文法家アリストパネースのことは必ず「ビューザンティオンのアリストパネース」と呼ぶ。 我々に伝えられているアリストパネースのテキストは、文法家アリストパネース(Ἀριστοφάνης Γραμματικός; Aristophanes Grammaticus)とも呼ばれる''ビューザンティオン''(Βυζάντιον; Byzantium; Byzantine)''のアリストパネース''(Ἀριστοφάνης Βυζάντιος; Aristophanes Byzantius; Aristophanes of Byzantine; c.257–c.180)が作った、最初の校訂本にその起源を求めることができる。しかし、アリストパネースが死んだ紀元前4世紀前半以降、ビューザンティオンのアリストパネースまで研究が行われてこなかったわけではない。 まず、紀元前4世紀後半にリュケイオン(Λύκειον, Lykeion; Lyceum)でペリパトス派(περιπατητικός; Peripatetic school)の人々が悲劇と喜劇の上演年代と優勝者のリスト作りを行った。アリストパネースの写本の梗概(ὑπόθεσις; hypothesis)に記されている上演年代はこのリストのさかのぼると考えられている。また、この時代には''リュクールゴス''(Λυκοῦργος, Lycurgos; Lycurgus)によって三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソポクレース、エウリピデース)のテキストが集められ、アテーナイの公文書庫に収められた。 アリストパネースの研究は、他の多くの詩人たちと同様、''アレクサンドレイア''(Ἀλεξάνδρεια, Alexandreia; Alexandria)において始められた。 エジプトを滅ぼしたアレクサンドロス大王は首都移転先としてのちのアレクサンドレイアを選び、紀元前330年頃から建設が始まる。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、エジプトを引き継いだ''プトレマイオスI世ソーテール''(Πτολεμαῖος αʹ ὁ Σωτήρ, Ptolemaios Soter; Ptolemaeus I Soter; Ptolemy of the Saviour; c.367–c.283)は大王へのオマージュとしてこの地をアレクサンドレイアと名付けた。プトレマイオス朝エジプトの初代の王(322–283)となった彼は王立学術研究所である''ムーセイオン''(Μουσείον, Museion; Museum)を建設し、それに図書館を併設した。これが''アレクサンドレイア図書館''である。ムーセイオンはプトレマイオスI世とベレニケー(Βερενίκη αʹ τῆς Αἰγύπτου)の子''プトレマイオスII世ピラデルポス''(Πτολεμαῖος βʹ Φιλάδελφος, Ptolemaios Philadelphos; Ptolemaeus II Philadelphus; Ptolemy II Philadelphus; 309–246)の治世(285–246)に隆盛を極めた。エペソス(Ἔφεσος; Ephesus)出身の''ゼーノドトス''(Ζηνόδοτος, Zenodotos; Zenodotus; fl.280)がアレクサンドレイア図書館の初代館長を務めた。彼はコース島(Κώς; Cos)出身の''ピリータース''(Φιλίτας; Philitas)の弟子である。ピリータースはピラデルポスの家庭教師も務めていた。 最初の''校訂者''(διορθώτης; critical editor)と呼ばれることからわかるように、ゼーノドトスによって文献学の歴史が始まったといえる。彼は、主に叙事詩の作品の校訂を行った。彼の同僚には''アイトーリアー''(Αἰτωλία; Aetolia)''のアレクサンドロス''(Ἀλέξανδρος ὁ Αἰτωλός; Alexander Aetolus)と''リュコプローン''(Λυκόφρων, Lycophron; Lycophro)がいる。前者は悲劇とサテュロス劇の、後者は喜劇の文献係を務めた。第2代館長は''ロドス''(῾Ρόδος; Rhodes)''のアポッローニオス''(Ἀπολλώνιος Ῥόδιος; Apollonius Rhodius; Apollonius of Rhodes)第3代館長はキューレーネー(Κυρήνη; Cyrene)''のエラトステネース''(Ἐρατοσθένης; Eratosthenes)が務めた([['''Suda''' s.v. Ἐρατοσθένης:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Epsilon,2898]] [ε 2898])。紀元前200年頃からの第4代館長がビューザンティオンのアリストパネース([['''Suda''' s.v. Ἀριστοφάνης:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Alpha,3933]] [α 3933])、第6代館長がサモトラケー(Σαμοθράκη; Samothrace)の''アリスタルコス''(Ἀρίσταρχος, Aristarkhos; Aristarchus)である。 アレクサンドレイア図書館には膨大な数の書籍が集められ、最盛期には全70万冊に上ったと言われている。そのため、目録作りは非常に重要な仕事であった。ピラデルポスの即位のあとほどなくしてゼーノドトスのもと、まずは詩人の作品の目録作りが行われ、キューレーネーの''カッリマコス''(Καλλίμαχος, Kallimakhos; Callimachus; c.305–c.240)が全49万冊の蔵書に対して目録を完成させて全120巻にまとめた([['''Suda''' s.v. Καλλίμαχος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Kappa,227]] [κ 227])。これは『書誌目録』(Πίνακες)と呼ばれ、作家別に作品がアルファベット順に並べられ、作品の冒頭部分が併記されている。ビューザンティオンのアリストパネースはこれの補遺を作成した(Athen. 9.408f)。 アリストパネースの同時代の言及は、紀元前5世紀のアテーナイ人にとってはたやすく理解できるものであった。アテーナイは小さな町であったから、うわさが町のすみずみにまで広がるのにはさほど時間はかからなかったであろう。しかし、これは100年後のアレクサンドレイアの学者たちにとってはすでに理解の難しいものになってしまっていた。したがって、古喜劇の詩人の作品の解釈(ἐξήγησις, exegesis)は、実利的な目的で始められたのである。リュコプローンは喜劇作品を順にひも解いていき、詩人の生涯や作品に関する細かなことがら、その他記録するに値することを書き留めて、全9巻にまとめた(Ath. 9.485d)。このあとカッリマコスが『書誌目録』を作成し、エラトステネースが少なくとも全12巻を数える、古喜劇についての著作をしたためる(D.L. 7.5: φησιν Ἐρατοσθένης ἐν ὀγδόῃ Περὶ τῆς ἀρχαίας κωμῳδίας)。これらはのちに現れる「注釈」のように体系的なものではないが、膨大な書籍を収蔵したアレクサンドレイア図書館においては、これなくしてはその後の研究は困難なものになっていただろうと考えられる。 アレクサンドレイアの港についた船にあった書籍は没収し、写しを持ち主に戻して原本は図書館に収める、他の都市から借りた文献は罰金を払って写しのみを返す、などの強引な方法をも使い、アレクサンドレイア図書館の蔵書数は飛躍的に増えていく。古注には少なくともアリストパネースの36の劇への言及があるので、彼のほとんどの作品のテキストがアレクサンドレイア図書館に集められていたことになる。これらのテキストは不注意な写字生、役者、テキストの所有者の手によって少なからず損傷を受けていた。これらをビューザンティオンのアリストパネースが比較検討して校訂本を作成し、テキストがこわれていると判断した箇所に印をつけていった。また、ピンダロスにおいて彼が行ったように、それまで散文のように書かれていたテキストを韻律の単位ごとに区切って行分けをした。アレクサンドレイア図書館に存在した筆写本の中には古いアッティカ方言で書かれたものもあったはずだが、それを当時の正書法(orthography)にもとづいて書き直したのも彼とされる。劇のあらすじと上演記録(διδασκαλία)を韻文で記した''梗概''(ὑπόθεσις, hypothesis)は彼のものとされてきたが、これは別の学者が書いたものと一般に考えられている。 最初の''注釈''(ὑπόμνημα; commentary)は''エウプロニオス''(Εὐφρόνιος, Euphronios; Euphronius)によって書かれたと考えられている(Ath. 495c, Σ ad '''Av.''' 1403)。ビューザンティオンのアリストパネースが注釈を書いたかどうかははっきりしない。彼の生徒である''カッリストラトス''(Καλλίστρατος, Kallistratos; Callistratus)はアリストパネースのみならずクラティーノスの注釈も書いた(Ath. 495a)。彼のもう1人の生徒であるアリスタルコスは800もの著作を書いたが([['''Suda''' s.v. Ἀρίσταρχος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Alpha,3892]] [α 3892])、その中にアリストパネースに関するものも含まれていたと考えられる。これらの注釈は、現代の注釈書と同様、テキストとは別のパピルスの巻物に書かれ、''見出語''(λήμμα, lemma)に続いて注釈が書かれていたと考えられる(単注本)。 ビューザンティオンのアリストパネースのもっとも偉大な業績の一つは、事典の編纂である。彼は最初の偉大な事典編纂者と呼ばれるにふさわしい。また、''デーメートリオス・イクシーオーン''(Δημήτριος Ἰξίων, Demetrios Ixion; Demetrius Ixio)はアッティカ方言に関しての辞典を作成した([['''Suda''' s.v. Δημήτριος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Delta,430]] [δ 430])。 紀元前30年にエジプトがローマに支配されるようになるまでの約250年間に、このように「古典作家」の研究は目録作り、作家の生涯・作品についての事実の収集、真作・偽作の判定、校訂とその方法の確立、注釈の作成、などによってその高みに達していた。上に挙げた他にも、注釈や事典を作成した学者がたくさんおり、おそらく彼らの死後、その作品は図書館に収められ、様々な学者の業績が蓄積されていった。 これらの蓄積を集大成し、ふるいにかける作業を最初に行ったのが紀元前1世紀終わりから紀元後1世紀の初めに活躍した''ディデュモス''(Δίδυμος χαλκέντερος, Didymos khalkenteros; Didymus Chalcenterus)である。3500巻もの本を書いたことから「青銅の腸をもつ」(χαλκέντερος)と呼ばれる([['''Suda''' s.v. Δίδυμος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Delta,872]] [δ 872])。彼はアリストパネースのみならず、プリューニコス、エウポリス、おそらくクラティーノス、メナンドロス、アッティカの弁論家の''集解''(しゅうげ;variorum editions)を書き、喜劇詩人の事典も書いた。彼は独創的な学者ではないが、偉大な収集家である。彼の作品はすべて散逸したが、1904年に発見されたデーモステネースへの注釈のパピルスによってそれが裏付けられている。 アレクサンドレイア図書館は、紀元前47年のナイルの戦いでカエサルの放火によりすべて焼失したとする説もあるが、この時に焼けたのは一部であって、アレクサンドレイア図書館は後代の火災や略奪や侵略によって段々と破壊されていったと一般には考えられている。 アレクサンドレイア図書館が紀元前47年に何らかの損傷を被ったことは確かで、たとえばアリスタルコスの『イーリアス』『オデュッセイア』の校訂本がおそらくその時に失われていることから、ディデュモスはアレクサンドレイア図書館に蓄積されている先人たちの業績が失われる可能性を憂慮し、集解の作成という仕事を始めたのだろうと White は考えている(White, xxxvi f.)。 実際にディデュモスがどの図書館の蔵書を使ったかについてはよくわからない。White は、次の可能性を考えている(White, xxxvii)。 +戦火をくぐり抜けたアレクサンドレイア図書館の蔵書 +セラーペイオンの蔵書 +ペルガモン図書館の蔵書 ''セラーペイオン''(Σεραπεῖον, Serapeion; Serapeum)は''プトレマイオスIII世エウエルゲテース''(Πτολεμαῖος γʹ Εὐεργέτης, Ptolemaios Euergetes; Ptolemaeus Euergetes; Ptolemy III Euergetes)の命によって紀元前3世紀の中頃に、アレクサンドレイア図書館の姉妹図書館として作られたものである。アッタロス朝ペルガモン王国の首都にあるペルガモン(Πέργαμος, Pergamon; Pergamum)図書館は、おそらくプトレマイオスI世ソーテールに遅れること1世紀、''アッタロスI世ソーテール''(Ἄτταλος αʹ ὁ Σωτήρ; Attalus I; 269–197)によって建設が始められ、''エウメネースII世''(Εὐμένης βʹ τῆς Περγάμου; Eumenes II)の時に完成した。アントーニウスがクレオパトラーにペルガモン図書館の蔵書全20万冊を贈ろうとしたという逸話から、ディデュモスの当時にはすでに大量の蔵書を抱えていたと考えられ、注釈も書かれていたと考えられる(Σ ad '''Aves''' 1508: ἐν τοῖς Ἀτταλίοις εὗρον σκιάδιον καὶ ἐν τῷ παλαιῷ τῷ ἐμῷ)。また、アレクサンドレイアは韻文作品の集成で有名だったのに対してペルガモンは散文作品で有名だったので、弁論作品への注釈を作成したディデュモスがペルガモン図書館の蔵書に興味を抱いていたことは十分に考えられる。 帝政期には、ピロクセノス(Φιλόξενος, Philoxenos; Philoxenus; [['''Suda''' s.v. Φιλόξενος:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Phi,394]] [φ 394])、ヘーリオドーロス(Ἡλιόδωρος, Heliodoros; Heliodorus)、ヘーパイスティオーン(Ἡφαιστίων, Hephaistion; Hephaestio)が韻律について著した。ヘーリオドーロスはアリストパネースの韻律の解説を行ったが、断片が残るのみであり、ヘーパイスティオーンの全48巻の著作は、縮約版によってのみ伝わるだけである([['''Suda''' s.v. Ἡφαιστίων:http://www.stoa.org/sol-bin/search.pl?login=guest&enlogin=guest&db=REAL&field=adlerhw_gr&searchstr=Eta,659]] [η 659])。アリストパネースの韻律理論に関してこの時代まで何も書かれてこなかったと考えるのは難しいので、ビューザンティオンのアリストパネースの韻律理論がヘーリオドーロスやヘーパイスティオーンに現れていると考えられている。 ディデュモスの次に集解を作成したのが''シュンマコス''(Σύμμαχος, Symmakhos; Symmachus; fl.100)である。彼がいつごろ、どこで注釈を作成したのかはよくわからない。彼がディデュモスの注釈を見ていたのは明らかで、喜劇に関する注釈だけを作成したこと、注意深く注釈を作成し、しばしばディデュモスとは違った結論を導いていることを考えると、彼はディデュモスの注釈書に満足できず、新たに注釈書を作成しようとしたのだと考えられている。なお、現在残っている11の劇を選んだのはシュンマコスであると Wilamowitz などによって考えられたことがあったが、これは誤りであるとされる。 4–5世紀に作者不明の集解が作られており、White は Dindorf の説を敷衍して、現在の古注の原型(archetype)はこれにさかのぼると考えている(White, lxxii)。この場合、それまでパピルスに書かれてきた別巻(冊)の注釈がテキストと一緒に、羊皮紙の余白に書かれ、これが7世紀半ばから9世紀半ばの「暗黒時代」をくぐり抜けて、コーンスタンティヌーポリスまたはコンスタンティノポリス(Κωνσταντινούπολις; Constantinopolis; Constantinople)総主教''ポーティオス''(Φώτιος, Photios; Photius; c.810–93)やその弟子と言われるアレタース(Arethas; c.860–c.939)たちによって「発見」されるまで生きながらえた、と考える。一方 Zuntz のように、現在の古注の原型、つまり余白に書き込まれた注は9世紀より前に存在したと考えることはできない、とする考えもある。 現存する最古のアリストパネースの写本は R 写本であり、10世紀半ばに書かれたと考えられているから、これはポーティオスの1世紀後くらいであり、マケドニア朝ルネサンスにあたる。V 写本が写されたのは11世紀または12世紀前半と考えられている。この2つの写本はパライオロゴス朝ルネサンスにおける古典復興期の前に写されたので、写本伝承の混成(contaminatio; contamination)を受けていない。したがって古注がたくさんつけられている V 写本は、古注の校訂本を作る際にはもっとも重要な写本になる。R, V 写本は多くの劇を含んでいるが、ビューザンティオンでの研究は、特に1453年の東ローマ帝国の滅亡の前およそ200年間は、''ビューザンティオン三篇選集''(『プルートス』『雲』『蛙』)に限られるようになっていく。 パライオロゴス朝ルネサンスの13世紀以降は、様々な学者たちがテキストを校訂していくようになる。12世紀に''ヨハネス・ツェツェース''(Ιωάννης Τζέτζης; Johannes Tzetzes; c.1110–1180)がその先鞭をつける。彼の校訂の痕跡は、ミラノとヴァティカンにある写本に見つけることができる。ホメーロスの注釈で有名なエウスタティオス(Εὐστάθιος, Eustathios; Eustathius)は同じ時期にアリストパネースの注釈を書いたが、断片でしか残っていない。他に''マクシモス・プラヌーデース''(Μάξιμος Πλανούδης; Maximus Planudes; c.1255–c.1305)が『プルートス』におけるツェツェースの韻律上の誤りを訂正しているのが確認できる。また、''マヌーエール・モスコプーロス''(Mανουὴλ Μοσχόπουλος, Manuel Moskhopoulos; Manuel Moschopulus; c.1265–?)は『プルートス』の注釈を書いている。もっとも重要なのは、14世紀前半の''トーマース・マギストロス''(Θωμᾶς ὁ Μάγιστρος; Thomas Magister)と、''デーメートリオス・トリクリニオス''(Δημήτριος Τρικλίνιος; Demetrius Triclinius)の2人であろう。マギストロスはビューザンティオン三篇選集の注釈を書き、それは学校の教材として使われた。トリクリニオスもやはり注釈を書いたが、もっとも有名なのは、伝えられているテキストで韻律上誤っている箇所を直したことだろう。 //-ストラボーン(Στράβων, Strabon; Strabo) //-ペッラ(Πέλλα; Pella)マケドニアの首都 //-アンティオケイア(Ἀντιόχεια, Antiokheia; Antiochia; Antioch) //-タルソス(Ταρσός; Tarsus) //- //アリストパネースの古注は大きく4つに分けられる(Dickey, 28–31)。 //+古代の古注 //+ツェツェースの古注 //+トーマス・マギステル(Thomas Magister)の古注 //+デーメートリオス・トリクリニオス(Demetrius Triclinius)の古注 // //古代の古注はアレクサンドリア時代にさかのぼり、カッリマコス、エラトステネース、リュコプローンが注を作成したことが知られている。最初の(文章として連続した)注釈を書いたのは、ビューザンティオンのアリストパネースの先生であるエウプロニオス(Euphronius)であると言われている。ビューザンティオンのアリストパネース自身も、梗概、注釈付きの校訂本を作成した。カッリストラトス(Callistratus)とアリスタルコスもおそらく注釈を作成し、ロドスのティーマキダス(Timachidas)は『蛙』の注釈を書いた。 // //これらの注釈をディデュモスが紀元前1世紀の終わり、または紀元後1世紀の初めに集成し、シュンマコスが紀元前1世紀または2世紀にディデュモスを主に用いながら、他の注釈も参考にして新たな注釈本を作成した。 // //ヘーリオドーロス(紀元後100年前後)が書いたアリストパネースの韻律の研究書は、注釈とは別に読まれていた。 // //特に最後の数世紀のビューザンティオンでの研究は、ビューザンティオン三篇選集(『プルートス』『雲』『蛙』)に限られるようになってきたが、ツェツェースとトリクリニオスはそれ以外に関しても注を書いている。ヘーリオドーロスにない韻律の解説はトリクリニオスによるものだと考えられている。エウスタティオスはアリストパネースの注釈を作成したが、現在は断片しか残っていない。新しい古注(scholia recentiora)はモスコプーロスによって書かれた。 **参考文献 [#ja87de8a] //-Austin, C., `The Scholia on Aristophanes', '''CR''' n.s. 51 (2001), . -Dickey, E., '''Ancient Greek Scholarship''' (Oxford, 2007) //-Dover, K.J., `The Scholia on the '''Knights'''', '''CR''' n.s. 22 (1972), . //- –- `Scholia Recentiora in '''Nubes'''' '''CR''' n.s. 28 (1978), . //-——— `Scholia on Aristophanes', '''CR''' n.s. 31 (1981), . -Dunbar, N. (ed.), '''Aristophanes: Birds''' (Oxford, 1995) -——— (ed.), '''Aristophanes: Birds''', Student Edition (Oxford, 1998) -Keany, J.J., ‘Notes on Moschopoulos and Aristophanes-Scholia’, '''Mnemosyne'''⁴ 25 (1972), 123–128. [[IngentaConnect:http://www.ingentaconnect.com/content/brill/mne/1972/00000025/00000002/art00002]] -Koster, W.J.W., et Holwerda, D., `De Eustathio, Tzetza, Moschopulo, Planude Aristophanis commentatoribus, I', '''Mnemosyne'''⁴ 7 (1954), 136–156. -——— ——— ‘De Eustathio, Tzetza, Moschopulo, Planude Aristophanis commentatoribus, II’, '''Mnemosyne'''⁴ 7 (1954), 196–206. -Labowsky, L. (ed.), '''Bessarion's library and the Biblioteca Marciana''' (Roma, 1979) -Strecker, K., '''De Lycophrone, Euphronio, Eratosthene comicorum interpretibus''' (diss. Gryphiswaldiae [Greifswald], 1884) Internet Archive: [[1:http://www.archive.org/details/delycophroneeup00stregoog]] [[2:http://www.archive.org/details/delycophroneeup01stregoog]] -White, J.W. (ed.), '''The Scholia on the Aves of Aristophanes''' (Boston, 1914) -Wilson, N.G., ‘A Chapter in the History of Scholia’, '''CQ''' n.s. 17 (1967), 244–256. -——— ‘Scholiasts and Commentators’, [['''GRBS''':http://www.duke.edu/web/classics/grbs/online.html]] 47 (2007), 39–70. -Zacher, K., '''Die Handschriften und Classen der Aristophanes-scholien''' (Leipzig, 1888) Internet Archive: [[1:http://www.archive.org/details/diehandschrifte00zachgoog]] [[2:http://www.archive.org/details/diehandschrifte01zachgoog]] = `Die Handschriften und Classen der Aristophanes-scholien', [['''Jahrbücher für classische Philologie''' 16 (1888):http://www.archive.org/details/jahrbcherfrclas07flecgoog]], 501–746. -——— ‘Die schreibung der Aristophanesscholien im Cod. Ven. 474’, [['''Philologus''' 41 (1882):http://www.archive.org/details/philologus55archgoog]], 11–51. -Zuntz, G., '''An Inquiry into the Transmission of the Plays of Euripides''' (Cambridge, 1965)
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