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アッティカの10人の弁論家たち

Last updated: 2008/11/15 by MATSUURA Takashi

Lat.Gr.名前Abbr. in LSJ生没年備考
AntiphoἈντιφῶνアンティポーンAntiphoca.480 -- 411
AndocidesἈνδοκίδηςアンドキデースAnd.ca.440 -- ca.390
LysiasΛυσίαςリューシアースLys.ca.445 -- ca.380居留外国人
IsocratesἸσοκράτηςイソクラテースIsoc.436--338
IsaeusἸσαῖοςイーサイオスIs.ca.415 -- ca.340居留外国人
DemosthenesΔημοσθένηςデーモステネースD.384--322
AeschinesΑἰσχίνηςアイスキネースAeschin.ca.395 -- ca.322
HyperidesὙπερείδηςヒュペレイデースHyp.390--322
LycurgusΛυκοῦργοςリュクールゴスLycurg.ca.390 -- ca.324
DinarchusΔείναρχοςデイナルコスDin.ca.360 -- ca.290居留外国人(コリントス生まれ)

この10人は、時代的に2つのグループに分かれる。1--5の5人はおおよそ紀元前420--360年に活動し、6--10の5人はその後に活動している。彼らはまとめて「アッティカの」(つまり「アテーナイの」)と呼ばれているが、居留外国人であるリューシアース、イーサイオス、デイナルコスは明らかにアテーナイの弁論家ではない。彼らもまた「アッティカの」と呼ばれるのは、彼らがアテーナイで活動していたからであり、実際にイソクラテースの第19番弁論を除いては、この10人の残っている弁論はすべてアテーナイでの訴訟などのために書かれている。

Ruhnken 以来、この10人は紀元前3世紀から紀元後2世紀の間に選ばれたと考えられてきた。

  1. アレクサンドレイアの図書館員たちによって(紀元前3--2世紀)
  2. ペルガモン(アッタロス朝ペルガモン王国の都)の修辞学者たちによって(紀元前2世紀)
  3. カラクテーのカイキリオスによって(紀元前1世紀の終わり)

ポイントとなるのは次のものである。

  1. [紀元前1世紀]Cic. Brut. 36.
  2. [紀元後1世紀]Quint. Inst. 10.1.76.
  3. [紀元後2世紀]Hermog.

おそらくキケローはこの10人が選ばれたことを知らず、クィンティリアーヌスは知っていると考えられることから、紀元前1世紀から紀元後1世紀の可能性が高い。また、ハリカルナッソスのディオニューシオスはこの10人が選ばれていることを知らないと考えられることから、それ以後の可能性が高い。Ian Worthington は、カラクテーのカイキリオス(Caecilius Calactinus)がこの10人を選んだと考えている(Worthington, `Canon', 244--263.)。

順番

これらの弁論家の順番は必ずしも同じではない。

Hermog. 2.11
Demosthenes, Lysias, Isaeus, Hyperides, Isocrates, Dinarchus, Aeschines, Antipho, Critias, Lycurgus, Ancdocides
[Plut.] X.Or. (832B--850E)
Antipho, Andocides, Lysias, Isocrates, Isaeus, Aeschines, Lycurgus, Demosthenes, Hyperides, Dinarchus
Phot. Bibl. 259--268
Antipho, Isocrates, Andocides, Lysias, Isaeus, Aeschines, Demosthenes, Hyperides, Dinarchus, Lycurgus

`Canon'

`Canon'(κανών)という言葉は、Ruhnken が1768年に定義して以降、使われだしたものである。

参考文献


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