eLearning/Greek/Aristophanes

アリストパネースの研究史

Last updated: 2009/01/04 by MATSUURA Takashi

N.B.
以下で単に「アリストパネース」と言った場合は喜劇詩人アリストパネースのことを指し、文法家アリストパネースのことは必ず「ビュザンティオンのアリストパネース」と呼ぶ。

我々に伝えられているアリストパネースのテキストは、文法家アリストパネース(Ἀριστοφάνης Γραμματικός; Aristophanes Grammaticus)とも呼ばれるビュザンティオン(Βυζάντιον; Byzantium; Byzantine)のアリストパネース(Ἀριστοφάνης Βυζάντιος; Aristophanes Byzantius; Aristophanes of Byzantine; c.257--c.180)が作った、最初の校訂本にその起源を求めることができる。しかし、アリストパネースが死んだ紀元前4世紀前半以降、ビュザンティオンのアリストパネースまで研究が行われてこなかったわけではない。

まず、紀元前4世紀後半にリュケイオン(Λύκειον, Lykeion; Lyceum)でペリパトス派(περιπατητικός; Peripatetic school)の人々が悲劇と喜劇の上演年代と優勝者のリスト作りを行った。アリストパネースの写本の梗概(ὑπόθεσις; hypothesis)に記されている上演年代はこのリストのさかのぼると考えられている。また、この時代にはリュクールゴス(Λυκοῦργος, Lycurgos; Lycurgus)によって三大悲劇詩人(アイスキュロス、ソポクレース、エウリピデース)のテキストが集められ、アテーナイの公文書庫に収められた。

アリストパネースの研究は、他の多くの詩人たちと同様、アレクサンドレイア(Ἀλεξάνδρεια, Alexandreia; Alexandria)において始められた。

エジプトを滅ぼしたアレクサンドロス大王は首都移転先としてのちのアレクサンドレイアを選び、紀元前330年頃から建設が始まる。紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、エジプトを引き継いだプトレマイオスI世ソーテール(Πτολεμαῖος αʹ Σωτήρ, Ptolemaios Soter; Ptolemaeus I Soter; Ptolemy of the Saviour; c.367--c.283)は大王へのオマージュとしてこの地をアレクサンドレイアと名付けた。プトレマイオス朝エジプトの初代の王(322--283)となった彼は王立学術研究所であるムーセイオン(Μουσείον, Museion; Museum)を建設し、それに図書館を併設した。これがアレクサンドレイア図書館である。ムーセイオンはプトレマイオスI世とベレニケー(Βερενίκη αʹ τῆς Αἰγύπτου)の子プトレマイオスII世ピラデルポス(Πτολεμαῖος βʹ Φιλάδελφος, Ptolemaios Philadelphos; Ptolemaeus II Philadelphus; Ptolemy II Philadelphus; 309--246)の治世(285--246)に隆盛を極めた。コース島(Κώς; Cos)出身のピリタース(Φιλίτας; Philitas)の弟子(彼はピラデルポスの家庭教師も務めていた)であるエペソス(Ἔφεσος; Ephesus)出身のゼーノドトス(Ζηνόδοτος, Zenodotos; Zenodotus; fl.280)がアレクサンドレイア図書館の初代館長を務めた。

最初の校訂者(διορθώτης; critical editor)と呼ばれることからわかるように、ゼーノドトスによって文献学の歴史が始まったといえる。彼は、主に叙事詩の作品の校訂を行った。彼の同僚にはアイトーリアー(Αἰτωλία; Aetolia)のアレクサンドロス(Ἀλέξανδρος ὁ Αἰτωλός; Alexander Aetolus)とリュコプローン(Λυκόφρων, Lycophron; Lycophro)がいる。前者は悲劇とサテュロス劇の、後者は喜劇の文献係を務めた。第2代館長はロドス(῾Ρόδος; Rhodes)のアポッローニオス(Ἀπολλώνιος Ῥόδιος; Apollonius Rhodius; Apollonius of Rhodes)第3代館長はキュレーネー(Κυρήνη; Cyrene)のエラトステネース(Ἐρατοσθένης; Eratosthenes)が務めた(Suda s.v. Ἐρατοσθένης [ε 2898])。紀元前200年頃からの第4代館長がビュザンティオンのアリストパネース(Suda s.v. Ἀριστοφάνης [α 3933])、第6代館長がサモトラケ(Σαμοθράκη; Samothrace)のアリスタルコス(Ἀρίσταρχος, Aristarkhos; Aristarchus)である。

アレクサンドレイア図書館には膨大な数の書籍が集められ、最盛期には70万冊に上ったと言われている。そのため、目録作りは非常に重要な仕事であった。ピラデルポスの即位のあとほどなくしてゼーノドトスのもと、まずは詩人の作品の目録作りが行われ、キュレーネーのカッリマコス(Καλλίμαχος, Kallimakhos; Callimachus; c.305--c.240)が49万冊の蔵書に対して目録を完成させて120巻にまとめた(Suda s.v. Καλλίμαχος [κ 227])。これは Πίνακες と呼ばれ、作家別に作品がアルファベット順に並べられ、作品の冒頭部分が併記されている。ビュザンティオンのアリストパネースはこれの補遺を作成した(Athen. 9.408f)。

アリストパネースの同時代の言及は、紀元前5世紀のアテーナイ人にとってはたやすく理解できるものであった。アテーナイは小さな町であったから、うわさが町のすみずみにまで広がるのにはさほど時間はかからなかったであろう。しかし、これは100年後のアレクサンドレイアの学者たちにとってはすでに理解の難しいものになってしまっていた。したがって、古喜劇の詩人の作品の解釈(ἐξήγησις, exegesis)は、実利的な目的で始められたのである。リュコプローンは喜劇作品を順にひも解いていき、詩人の生涯や作品に関する細かなことがら、その他記録するに値することを書き留めていき、9巻にまとめた(Athen. 9.485d)。このあとカッリマコスが Πίνακες を作成し、エラトステネースが少なくとも12巻を数える、古喜劇についての著作をしたためる。これらはのちに現れる「注釈」のように体系的なものではないが、膨大な書籍を収蔵したアレクサンドレイア図書館においては、これなくしてはその後の研究は困難なものになっていただろうと考えられる。

アレクサンドレイアの港についた船にあった書籍は没収し、写本を持ち主に戻して原本は図書館に収める、他の都市から借りた文献は罰金を払って写本のみを返す、などの強引な方法をも使い、アレクサンドレイア図書館の蔵書数は飛躍的に増えていく。古注には少なくともアリストパネースの36の劇への言及があるので、彼のほとんどの作品のテキストがアレクサンドレイア図書館に集められていたことになる。これらのテキストは不注意な写字生、役者、テキストの所有者の手によって少なからず損傷を受けていた。これらをビュザンティオンのアリストパネースが比較検討して校訂本を作成し、テキストがこわれていると判断した箇所に印をつけていった。また、ピンダロスにおいて彼が行ったように、それまで散文のように書かれていたテキストを韻律の単位ごとに区切って行分けをした。劇のあらすじと上演記録(διδασκαλία)を韻文で記した梗概(ὑπόθεσις, hypothesis)は彼のものとされてきたが、これは別の学者が書いたものと一般に考えられている。

最初の注釈(ὑπόμνημα; commentary)はエウプロニオス(Εὐφρόνιος, Euphronios; Euphronius)によって書かれたと考えられている。ビュザンティオンのアリストパネースが注釈を書いたかどうかははっきりしない。彼の生徒であるカッリストラトス(Καλλίστρατος, Kallistratos; Callistratus)はアリストパネースのみならずクラティーノスの注釈も書いた(Athen. 495a)。彼のもう1人の生徒であるアリスタルコスは800もの著作を書いたが(Suda s.v. Ἀρίσταρχος [α 3892])、その中にアリストパネースに関するものも含まれていたと考えられる。これらの注釈は、現代の注釈書と同様、テキストとは別のパピルスの巻物に書かれ、見出語(λήμμα, lemma)に続いて注釈が書かれていたと考えられる(単注本)。

ビュザンティオンのアリストパネースのもっとも偉大な業績の一つは、事典の編纂である。彼は最初の偉大な事典編纂者と呼ばれるにふさわしい。また、イクシオーンのデーメートリオス(Δημήτριος Ἰξίων, Demetrios Ixion; Demetrius Ixio)はアッティカ方言に関しての辞典を作成した(Suda s.v. Δημήτριος [δ 430])。

紀元前30年にエジプトがローマに支配されるようになるまでの約250年間に、このように「古典作家」の研究は目録作り、作家の生涯・作品についての事実の収集、真作・偽作の判定、校訂とその方法の確立、注釈の作成、などによってその高みに達していた。上に挙げた他にも、注釈や事典を作成した学者がたくさんおり、おそらく彼らの死後、その作品は図書館に収められ、様々な学者の業績が蓄積されていった。

これらの蓄積を集大成し、ふるいにかける作業を最初に行ったのが紀元前1世紀終わりから紀元後1世紀の初めに活躍したディデュモス(Δίδυμος χαλκέντερος, Didymos khalkenteros; Didymus Chalcenterus)である。3500冊もの本を書いたことから「青銅の腸の」(χαλκέντερος)と呼ばれる(Suda s.v. [δ 872])。彼はアリストパネースのみならず、プリュニコス、エウポリス、おそらくクラティーノス、メナンドロス、アッティカの弁論家の集注本(variorum editions)を書き、喜劇詩人の事典も書いた。彼は独創的な学者ではないが、偉大な収集家である。彼の作品はすべて散逸したが、1904年に発見されたデーモステネースへの注釈のパピルスによってそれが裏付けられている。

ディデュモスの次に集注本を作成したのがシュンマコス(Σύμμαχος, Symmakhos; Symmachus; fl.100)である。この数世紀後に作者不明の集注本が作られている。

参考文献


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS