Last updated: 2008/08/24 by MATSUURA Takashi
以下のページも参考にしてください(何人かの弁論家が一緒に扱われている場合があります)。
以下の記事は主に Worthington, Greek Orators II, 1--41 によります。
ハリカルナッソスのディオニューシオス(Dionysius Halicarnassensis; D.H.)が主要な典拠である。偽プルータルコス(Ps.-Plutarchus)は、ディオニューシオスにない点をいくつか伝えているが不正確な点もある。ポーティオス(Photius)は偽プルータルコスからの抜粋だと考えられる。『スーダ』(Suda)は同名のコリントスの政治家と混同している。
年 | 典拠 | できごと | 年 | その他のできごと |
---|---|---|---|---|
336 | ピリッポスII世暗殺、アレクサンドロス大王即位 | |||
361/0 | D.H. Din. | コリントスに生まれる | ||
ante 338 | アテーナイに移住する | |||
338 | Rutilius Rufus | カイロネイアの戦いで戦う | ||
336/5 | logographus になる | |||
324 | ハルパロスがアテナイに亡命しようとする | |||
323 | ハルパロス事件の弁論作成を依頼される | アレクサンドロス大王死去、ラミア戦争 | ||
307/6 | カルキスへ亡命する | |||
292/1 | アテーナイに戻る | |||
? (290?) | 死 |
コリントスの裕福な家に生まれ、アテーナイに移住して弁論を学ぶ。アテーナイに移住して間もなく、マケドニアのピリッポスII世との戦争で、ギリシア側の兵士として戦った(カイロネイアの戦い)。テオプラストス(テオフラストス)に学び、パレーロン(Φάληρον; Phalerum)のデーメートリオス(Δημήτριος Φαληρεύς; Demetrius Phalereus)の講義に出席していたらしい。紀元前330年代の中頃からアテーナイで弁論代作者として活動する。居留外国人(μέτοικος; metic)であるために弁論代作に専念することができ、それによりかなりの財を成したと考えられている。
アンティパトロス(Αντίπατρος; Antipater)、カッサンドロス(Κάσσανδρος; Cassander)と交友があったために、紀元前307年にデーメートリオス・ポリオルケーテース(Δημήτριος Πολιορκητής; Demetrius Poliorcetes)がアテーナイからパレーロンのデーメートリオスを追放し、アテーナイに制限つきの民主制をもたらした際には、デイナルコスも亡命せざるを得なかった。彼に対する裁判が行われる前にカルキスへ亡命し、そこで15年間を過ごした。紀元前290/1年にデーメートリオス・ポリオルケーテースの許しを得てアテーナイに戻る。戻った後はプロクセノス(Πρόξενος; Proxenus)の家に住まわせてもらっていたが、その間に彼のかなりの財産をプロクセノスがくすねたということで、プロクセノスを訴えた。この最初の弁論で彼は初めて法廷で実際に弁論を行った(居留外国人にはアテーナイ市民と同じ権利が与えられていなかったため)。彼がいつ、どこでどのように死んだのかはわからない。
ハルパロス事件が彼の経歴の上での転換点であり、アテーナイ市より作成を依頼されたこの事件で弁論代作者として名声を得た。アレクサンドロス大王の死後、カッサンドロスがアテーナイを治めていた317--307年が彼の最盛期(ἀκμή)であるといえる。
デイナルコスは「アッティカ10人の弁論家たち」の中に加えられてはいるものの、古代から低い評価しか与えられてこなかった。ハリカルナッソスのディオニューシオスは、デイナルコスはデーモステネース、リューシアース、ヒュペレイデースに劣っており、名声を得たのはアレクサンドロス大王の死後、彼より優れた弁論家がいなくなってしまったためだと言っている(実際「アッティカ10人の弁論家たち」のうちの何人かはその時期に処刑されたり、自殺したりしていて、世紀の変わり目まで生きていたのはデイナルコスだけである)。ディオニューシオスの評価によれば、彼は「田舎のデーモステネース」であり、カッリマコスやキケローが優れた弁論家として評価しているのにも関わらず、現代の評価はディオニューシオスのそれと同じである。
Blass は「まとまりがなく、支離滅裂」といい、Jebb は論じる価値がないと判断している。Dobson は、デイナルコスはアッティカの弁論の凋落を表している存在だといい、構成が一貫しておらず、文章は長くて形式がない、と批判している。最近の Kennedy などの見解も同様である。
これに対して Worthinton は、他の数々の弁論家が除外されているのにも関わらずデイナルコスが「アッティカの10人の弁論家たち」の中に加えられていることには意味があると考えている。ディオニューシオスは、デーモステネース、リューシアース、ヒュペレイデースを模倣しているだけだ、といっているが、そうではなく、様々なスタイルを取ることができた作家ということなのである。また、一見繰り返しが多く、単調で、一貫しない「長い」文章は、極度に複雑な ring-composition(「円環構造」と訳すのか?)を使っている結果である。これは韻文、散文に限らず、ギリシア・ローマの作家に広く見られる技法であるが、弁論家にはこれまで認められていなかった。ring-composition によって言葉やフレーズ、テーマがエコーされ、構造的な対称性が構築されるのである。
彼の代作した弁論の数は160とも60とも言われているが、おそらく61が正しい。そのうち29が公訴に、32が私訴に関するものである。残っているのは公訴に関する3つの弁論である。
1--3はいずれもハルパロス事件に関する弁論である。『デーモステネース弾劾』は、第33/34, 64, 82節に欠落がある他は完全に残っている。他の2つは不完全である。他に断片がある。
14世紀終わり頃の写本で、紙に書かれている。デイナルコスの他、アンティポーン、リュクールゴス、リバニオスの弁論が書かれている。
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