Last updated: 2008/08/20 by MATSUURA Takashi
以下のページも参考にしてください(何人かの弁論家が一緒に扱われている場合があります)。
年 | 出典 | できごと | 年 | その他のできごと |
---|---|---|---|---|
336 | ピリッポスII世暗殺、アレクサンドロス大王即位 | |||
361/0 | D.H. Din. | コリントスに生まれる | ||
ante 338 | アテーナイに移住する | |||
338 | Rutilius Rufus | カイロネイアの戦いで戦う | ||
336/5 | logographus になる | |||
324 | ハルパロスがアテナイに亡命しようとする | |||
323 | ハルパロス事件の弁論作成を依頼される | アレクサンドロス大王死去、ラミア戦争 | ||
307/6 | カルキスへ亡命する | |||
292/1 | アテーナイに戻る | |||
? (290?) | 死 |
コリントスに生まれ、アテーナイに移住して弁論を学ぶ。アテーナイに移住して間もなく、マケドニアのピリッポスII世との戦争で、ギリシア側の兵士として戦った(カイロネイアの戦い)。テオプラストス(テオフラストス)に学び、パレーロン(Φάληρον; Phalerum)のデーメートリオス(Δημήτριος Φαληρεύς; Demetrius Phalereus)の講義に出席していたらしい。紀元前330年代の中頃からアテーナイで弁論代作者として活動する。居留外国人(μέτοικος; metic)であるために弁論代作に専念することができ、それによりかなりの財を成したと考えられている。
紀元前307年、デーメートリオス・ポリオルケーテース(Δημήτριος Πολιορκητής; Demetrius Poliorcetes)がアテーナイからパレーロンのデーメートリオスを追放したので、デイナルコスも亡命せざるを得ず、カルキスへ行き、そこで15年間を過ごした。紀元前290/1年にデーメートリオス・ポリオルケーテースの許しを得てアテーナイに戻る。戻った後はプロクセノス(Proxenus)の家に住まわせてもらっていたが、その間に彼のかなりの財産をプロクセノスがくすねたということで、プロクセノスを訴えた。この最初の弁論で彼は初めて法廷で実際に弁論を行った(居留外国人にはアテーナイ市民と同じ権利が与えられていなかったため)。彼がいつ、どこでどのように死んだのかはわからない。
1--3はいずれもハルパロス事件に関する弁論である。
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